課題曲あれこれ

コンクールまでもうすぐですね。暑い日が続くので体調には気をつけたいところです。

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聖☆おにいさん』のヒトコマ、受胎告知のパロディです。
この漫画、巻が進むにつれてネタがどんどんマニアックになってる(笑)。

歌を歌うにあたって、言葉の意味や物語、時代的背景を理解することも、うまく歌うのに繋がります。
言葉の意味、発音
私の経験ですが、言葉の意味を分からずに歌っている人は結構損しています。
例えば練習でやった、「utero」のウ母音での掛け合いは昔の人が持っていた、「胎内」の神秘的なイメージを出すこと。この意味を意識して歌うことができるようになると、更にうまくなります。
慣れないうちは楽譜に言葉の意味を書いて、旋律と言葉の意味を結ぶクセをつけたほうが良いです。ってそろそろ暗譜している人も多いと思いますが(笑)。
発音も、慣れないうちは楽譜に書き込むことをお勧めします。ラテン語の読み方が分からない人は以下のサイトを参考にすると良いと思います。
合唱団ぽっきりの演奏情報など
途中から練習に加わった人は意外と勘違いしていることが多いので、不安なら恥ずかしがらずに周りに確認すると良いです(聞くは一時の…ってやつです)。
物語、時代的背景
物語については2010 G1:Ne timeas, Maria の背景 (1)に書いてあります。受胎告知って感動的なんですが、悲劇的な側面も持っているということを知ることが重要です。この物語と Victoria の作った音楽と合わせて、どういう表現するかということが合唱の醍醐味です。
時代的な背景を知るのには2010 G1:Ne timeas, Maria の背景 (2)でお勧めしたサイトを見てみるのをお勧めします。同じ芸術っていう枠の中で、音楽と美術が進化しているんだな、っていうことが一目で理解できます。
Ne timeas, Maria の時代的背景には音楽史における”Ne timeas, Maria”の位置づけと、表現の一部が書いてあります。
コンクールまでもう少し。基本を忘れずに歌っていきましょう。

中村先生練習とビアガーデン

中村先生にコンクール課題曲・自由曲の歌い方を教えてもらいました。

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前回の中村先生練習は参加できなかったので(涙)、待ち望んだ練習でした。VoxMEAとしても音楽が上達しました。次に繋げるためにも、指導していただいたことを自分なりに解釈して書いておこうと思います。
“いつも”腹筋から頭までスムーズに息が流れることを意識する
最初から最後まで言われっぱなしでしたね。基本なんですが、全然出来ていないことが良く分かりました。
勉強になったのは『砂時計』で、ソプラノが“あのときは”で高音に跳躍しながらfからppになるところです。喉を締めて高音を出そうとすると、ここの表現が出来ないので、響きで音量を調整していることが、見ていても良く分かりました。
他には『どんぐりのコマ』のベースのパートソロ“どんぐり”の入りで”Do”を出すところ、低音ということもあるのですが、破裂音を出そうとすると無意識に胸から息を出そうとしていることが実感できました。そうやって出される低音は胸で響いているような、響きが濁った音になっているんですね。
母音が変化する際のピッチを統一させる
『砂時計』で最初のアルトのパートソロ“ときはおちる”のところ、音の跳躍があるのですが、それを無視して一定の音で歌うことで、母音が変化する際のピッチを揃えていました。母音のピッチは個人で結構クセがあると思います。私を例に出すと“イ”母音は上ずり傾向で“ア”母音は下がり傾向です。この辺りを今後どうにかしていきたいと考えています(涙)。
これと母音の出し方についてで書いた、あいまいな母音の出し方が出来るようになると、『どんぐりのコマ』で女声が“もういいかい”、男声が“ゆきたいな”で延ばすところ、母音が違うのに凄くハモってたのは、歌っていて良く分かったはずです。
この日の練習でやったように『ウ→オ→ア→エ→イ』の順で同じ音を出す練習をやることで、母音間のピッチを揃える口の開け方、響かせ方を覚えることが出来ます。前の日にハミングで課題曲練習をやりましたが、これも同様に、母音を入れないことで音程の意識が正しいかチェックしています。
音程に関する指摘を受けたときに、母音をチェックして自分の母音の出し方のクセを見抜くことは、上達するために重要だということがよく分かりました。
最後まで歌い切る
息が続かないこともあるのですが、言葉の最後はどうしても抜けてしまいがちです。ただ、日本語としての意味を考えると最後まできちんと伝えることが必要となるシーンがあります。“いる”なのか“いない”なのか、“泳ぐ”のか“泳がない”なのか、きちんと伝えきることを指導されました。言葉として相手に伝える際に必要なことを、きちんと理解して歌うってことの重要性を教わりました。
他にもいろいろと教わりました。練習に来られなかった人は、来た人にいろいろと聞いてみた方が良いです。
練習後は中村先生と有志で中日ビル屋上のビアガーデンに行きました。
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自称晴れ男(?)中村先生のおかげもあって、カンカン照りでした。暑い。
水分補給にビールを飲むしかない(笑)。

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日が暮れるとビル風が良い感じに吹いて、美味しくビールをいただけました。

どんぐりのコマ(五つの童画)の詩の解釈

どんぐりのコマ … どんぐりの頭 神さまがちょっと

つまんでとがらせた


『どんぐりのコマ』も含め、この曲集に含まれている曲の言葉は割と平易で、一見すると子供が書いた絵の情景を表現した詩に見えるんですが、理解しようとするとその深いメッセージ性に気付くことができます。
まるで子供に絵本を読み聞かせる時に、こっちがその絵本が発信しているメッセージに気付き、教えてあげているつもりが逆に教えられているような、そんな体験です。
この詩集を五つの“童画”と名付けたセンスは物凄いことだと思います。
…というわけで、相変わらず勝手に解釈をしていこうと思います。
さっそく詩を読んでいきます。最初の「なぜとがってる」と問いかけをしている人はだれでしょうか。おそらく子供なんでしょうね。Sop.が担当なので男の子、女の子に関わらず小さい子だと思います。
そこから先の“樫の木に”以降は詩にインデントがついているように、情景の説明です。ここでの
いっぱいなりました … いっぱい(実が)生った
まあるくなりました … 丸くなった、丸く(実が)生った
その後の“樫の木になりたい” … 文字通り
というように、同じ“なる”という文字でも言葉ごとに意味が推移していきます。
この後は擬人化されたどんぐりの物語です。擬人化するには物語の書き手がいるので、書き手兼読み手は最初に出てきた子供なんでしょう。いろいろな大きさのどんぐりを見て、いろいろと想像を駆け巡らせたと思います。「大きいのは大きい樫の木になりたいんだな」とか…、あれ、じゃあ小さいどんぐりは?普通、樫の木って大きいです。この考えだと小さなどんぐりは何にもなれませんよね。
ここで子供は、頭の中で神さまを作ります。優しい神さまが、小さなどんぐりに対して『コマになっていいんだよ』と、頭をつまんでとがらせたのだと思いつきました。だから大きなどんぐりも小さなどんぐりも喜んで飛び降りて行く情景が子供の頭の中で生き生きとイメージされます。
“どんぐりみんな”以降は、子どもが言葉としての『どんぐり』から、種としての意味を持つ『樫の実』を理解するんだけど、そうやって考えるとみんな幸せになれないので、神さまがわざと樫の実を『とんがり頭』にして、『コマの足』とするストーリーが作られる過程をまとめています。
“どんぐり!”は感極まった子供の叫びでしょう。“からからくるり”でどんぐりのコマがカラカラと音を立てて回る様、カラカラと乾燥した情景を思い浮かばせ、続いて“落ち葉もまわる”“風もまわるよ”と、からっ風が吹いて落ち葉が回る様子を子供の視点から、すべての見るものが新鮮な視点で描かれます。
“こどもたち”以降、フィナーレはどんぐり・子供たちを最も俯瞰的な目で見た立場から描かれます。この光景を見ているのは、この詩を書かれた高田敏子さんであり、この詩を読んだ私たちです。
…というのが私の解釈です。情け無いことに全く自信がありません(涙)、変なところがあれば優しく突っ込んでいただけると助かります。
五つの童画について説明がされていましたので、今回はそれを念頭に詩の解釈を行いました。
調布市民合唱団ホームページ
1968年の作品。 ビクターからリリースされている『三善晃作品集1』の中で三善晃は、高田敏子さんに、「人間と地球全体をくるむ愛を歌う、というテーマで、詩心をもっと ひろやかに、少しばかりのフィクシャスな寓意をはさみこんだ詩を書いてくださるようお願いした。」と書いている。
私の詩の解釈は途中から大分暴走しています(笑)、愛を与えてくれる神様って人間が作り出したものなんじゃないかなと思い、こういう解釈になりました。出来る限りの言葉を使ったつもりですが、力足らずで伝わりきれていなければごめんなさい。
最後に、子供がらみで感動した動画を紹介します。

Ne timeas, Maria の楽譜

楽譜と言ってもグレゴリオ聖歌の楽譜です。モテットやミサの旋律の基礎に用いられている原本を知ってみようという試みです。


楽譜の様式が五線譜と異なります。この譜面の様式はネウマ譜と呼ばれるそうです。
ネウマ譜 | Wikipedia
ネウマ譜(neumatic notation)とは、ネウマと呼ばれる記号を用いた記譜法のことである。9世紀頃に現れ、音高を明示しないネウマ、音高ネウマ(ダイアステマ記譜法)といった初期の記譜法が発展し、11 世紀になると譜線ネウマが見られ、4本の譜線が用いられるようになった。このころ、線譜表には、C音とF音が付けられるようになり、それがハ音記号とヘ音記号となる(ト音記号もG音の記号である)。ネウマ(neuma, νευμα)とはギリシャ語で「合図、身振り」という意味であり、合唱を指揮する際の手の合図である。
ネウマ譜自体はあんまり読めなくても、なんとなく音程のイメージは掴めますよね。グレゴリオ聖歌版”Ne timeas, Maria”はここでほとんどを視聴できるので、気になった人は聴いてみると良いです。課題曲と見比べてみて、オリジナルがどのように移植されているか考えてみるのも、理解を深めるのに役立つと思います。”EUOUAE”ってなんだと思いましたが、”seculorum amen” の略で、最も長い母音で構成されている英単語としてギネスに載っているんだそうです。
備忘録的ネウマ譜まとめ
ネウマ譜を調べられるサイトをまとめておきます。
MusicaSacra
ほとんどすべてのネウマ譜が見られます。今日の楽譜はここにある“Antiphonale (1912)”から持ってきています。
Gregorian chants, with audio files
実際の歌い方(mp3)付きのネウマ譜が見られます。”Ne timeas, Maria”は無かった…。
Codices Electronici Sangallenses
譜線の無い「古ネウマ譜」のデータベース。ザンクト・ガレン修道院の手写本が収蔵されています。

6/12の練習

今日は合唱祭前日練習でした。


全体の3分の2は課題曲の練習、その後はピアノ伴奏の榊原先生も入って自由曲「砂時計」の練習をしました。VoxMEAは練習の最初の30分が、ウォーミングアップや口の開け方・息の流し方などの、歌う上での基本的事項を確認する時間なんですが、最近はウォーミングアップよりも口の開け方、息の流し方を確認する時間としての意味合いが強くなったな~と感じました。関連でいろいろと思ったことは後日書きたいと思います。
今日の課題曲の練習では指揮者から、Mariaの”Ma”,pariesの”Pa”の発音について、しつこく言われました。
“M+母音”を出すときは下顎が開いて暗い音になりがちなので、上顎を開けたり唇の両端を持ち上げて明るい音を出すように心がけると良い響きになります。
“P”とかの破裂音を扱うときは、息の流れや口の奥の形をコントロールしようとすると後の母音がスカスカになったり逆にアタックしたり聞こえます。”P”を当てる唇の筋肉を調整して、一定の息の流れ・口の形で破裂音を出すのが正解です。どうしても苦手って人には歌をうまく歌うために (3)で紹介しているリップトリルをやって、口まわりの筋肉をほぐすことをお勧めします。
…と書いていると当たり前なんですが、なかなかやってみると難しいのが歌なんですよね~(涙)。一番重要なのは “a” の母音の出し方なんですが、これも自分自身、まだ出来ていない課題です。
今日は各パート1人のアンサンブルがありました。各パート一人一回ずつだったので、まだ出ていなかった自分が歌ったのですが、歌っている間は頭が真っ白けでした。いったい何歌っていたのか、後で録音を聴いて大いに凹み、次回の一人アンサンブルへの糧へとしたいと思います(号涙)。

Ne timeas, Maria の時代的背景

合唱祭まで一週間を切りました。合唱をやっている身内同士の演奏なのでそれほど緊張感はないんですけど、本番ものびのび歌いたいものです。
今日は”Ne timeas, Maria”を歴史的な背景から調べてみました。
キリスト教音楽の歴史
今回も相変わらず Wikipediaで調べています。やたら詳しく書かれているので、気になった人は読んでおくと良いです。
グレゴリオ聖歌の成立からいくつかの音楽的な変遷を経て、ルネサンス期にはキリスト教音楽は多声音楽の、音楽としての美しさを追求した姿に変化していきました。
その反面、複数の声部が複雑に入り組んだ聖歌は、美しいんですが歌詞が聴き取りづらくなります。そのような信仰を訴えづらい曲が作られていくことは次第に問題になってきたそうです。
そんな中で起こったのが宗教改革です。カトリックは新教への対抗をするために自己改革をする必要がありました。トリエント公会議が行われ、歌詞が不明確な聖歌も問題となって改められることになりました。”Ne timeas, Maria” の作者である TomクJ% Luis de Victoria はこの時代の作曲家で、敬虔なカトリック教徒です。トリエント公会議が終了したのは1563年で、この曲が発表されたのは1572年です。当然何かしているハズと思い、歌詞が聴き取りづらいポリフォニーにどんな工夫をしているのかに焦点を当てて、楽譜を読んでみました。
アクセントを外す


6小節目からの複雑な部分を抜き出しています。青でくくっているのが各声部でのアクセントです。絵で見ると分かるように、各声部はそれぞれ違うタイミングで、場合によっては異なるフレーズを歌っているのですが、言葉のアクセントとなるタイミングはきちんとずらされていることが分かります。アクセントがずれていれば言葉もきちんと聴こえますよね。歌い手はどこをしっかり出すか、どこを他パートに回せばよいか、言葉によって知ることができます。
終止を揃える

24小節目からの部分を例に挙げてみましたが、この曲は終止がホモフォニックになることが非常に多いです。終止に向けて縦を揃えることによって言葉を明確に伝えることができると思います。ずいぶん和声を重視しているんだなと思っていたら、こういう風に表現している文章を見つけて、なるほどと思いました。
ルネサンスの音楽Ⅱ ポリフォニーの完成 | 2010年度「音楽史」西南学院大学
ヴィクトリア (Thomas Luis de Victoria : c.1548 – 1611) は、後に故国に帰りマドリッドの宮廷に仕えますが、師であるパレストリーナの音楽が静的な整った美を標榜しているのに対し (幾分抑制されてはいるものの) 劇的な激しい表現を盛り込むことで独特の作風を得ています。 このドラマチックな表現の故に 「スペイン的」 と形容されることも多いのですが、均整の美学であるルネサンスの枠を越え、ドラマを指向するバロック音楽に一歩踏み出したものとして捉えると尚更興味深いものがあります。
全講義です。ここは本当に勉強になります。他のページですが『ヒューマニズムの追求を芸術面で成就したのがルネサンスであるなら、信仰の側面から追求したのが宗教改革運動、と総括することが出来そうです。』とか、金言がさらっと書いてあったりします。まだ掲載されていない講義内容もありますが、今後も読んでいって深く音楽を理解していきたいと思います。

砂時計 (五つの童画) の詩の解釈

砂時計 … 落ちた時は銀色の魚(うお)になって

夜の海に泳ぐ


合唱祭でも歌う砂時計の詩の解釈です。調べてみましたが、なかなか載っているサイトがないです。曲の解釈なんてとても出来ないので、詩の意味だけでも自分なりに考えてみました。詩の解釈なんて、読んだ人次第なので、基本的に自由だと思います。ただ、書いた自分自身、情け無いことに相変わらず自信がありません(笑)。おかしいところがあれば優しくツッコミを入れてくれると助かります。
タイトルについて
この作品って、誰に向けて書かれた詩なのかが漠然としていますよね。一般的な事実を、俯瞰的に読み取っているように見えます。ただ、自分は作詩者の主観がかなり入っていると思うんです。
作詩者である高田敏子さんは1914年に生まれて1989年に亡くなられました。『五つの童画』は1968年の作品です。三善晃さんがこの曲を作曲するにあたり、高田さんに作詩を依頼したとのことなので、作詩から作曲まで間があったとしても、当時高田さんは50歳代のはずです。50歳といえば今の世の中、これからセカンドライフって人も多いと思いますが、働き盛りの20~40歳代から比べると、これまでの人生を思い返すことも多くなるのではないでしょうか。
この詩では悲しかった事も楽しかった事も、すべて今の自分にとっては過去の事で、もうあの頃にした事をやり直すことはできない、どうしようもない寂しさが表現されていると思うんです。タイトルが「砂時計」の割に、砂時計っていう単語は一度も使われていませんよね。ここには、人生は時が流れ落ちる砂時計のようなものなんだという人生訓と、ひっくり返して時間を巻き戻したいという作詩者の想いが暗喩となってタイトルになっているんじゃないかと自分は感じました。
銀色
この曲で銀色という色は一つのテーマになっています。
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銀色のイメージ | 色カラー
銀色の心理効果
高級、知性、洗練、冷たさ、金属、協調性、機械、未来、
殺菌、才能、雪原、貴重、品質、輝き、シンプル、人工的
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この中で最もストレートに感じるのは『輝き』だと思います。鏡のように、見る角度によって色が変わるとも受け取ることができます。ただ、上に書いたように、今の自分にはどうすることもできない過去の出来事に色を付けているとしたら、無機質で冷たい印象を受けます。そういった意味では“夜”も冷たいイメージですよね。

“うお”です。“さかな”って読むとスーパーで並んでいるような魚を思い浮かべるんですが、“うお”って読むと、まさに生き生きと泳いでいる魚を想像します。上に書いた“銀色”と併せると“銀色の魚”となり、躍動的だけど無機質という、よくできた作り物の魚の姿がイメージできると思います。そのうろこの一枚一枚は記憶で構成されていて、悲しい出来事(水泡)を乗り越えて(喰んで)いる…。その魚は過去の自分で、それを冷静に見つめている今の自分がいる。つまり“銀色の魚”って、今の自分が過去の自分を投影した姿なんじゃないかと解釈してみました。
…と、詩の内容を読みといていたらいつの間にかこの曲が大好きになってしまいました。もともとはあまり好きじゃなかったのに(爆)。
魚と人生って繋がりでビッグ・フィッシュという映画があるんですが、その内容を思い出しました。ティム・バートンの変な世界観についていけるかたには猛烈にオススメします。感動で泣けます。
とりあえず予告編を置いておきますね(´・ω・`)

暗譜について

前に書きましたが、合唱祭は暗譜と指揮者から命じられましたね。Wikipedia では暗譜についてこう書かれています。
基本的には楽譜表記を覚えることにあるが、単純に丸暗記という手段では暗譜能力の向上は望めない。楽譜を理解する能力、つまりソルフェージュ能力が必要であり、ソルフェージュ能力に長ける者はそれだけ暗譜スピードも速い。つまり耳を使う(聴力ではない)ことが第一である。そのため、目で見て覚えられるということは少ない。
最初から楽譜を理解する能力を持っている人はなかなかいないと思います。練習のメモを読み返したり、他のパートの歌い方を聴いたりすることで、曲全体のなかで、なんでここはこう歌うのか、情景を自分なりに理解することが重要だと思います。
これまでの自分の経験と、今回いろいろ調べてみた結果から、暗譜の長所・短所について書いてみます。
暗譜の長所
楽譜という『目に見えるもの』を頼りに音を出すことができなくなります。楽譜って目に見えるんですが、絶対音感の持ち主でなければ、楽譜通りの音を出せません。相対音感はそこまで難しくないんですが、楽譜を見ていると周りの音をなかなか意識できないんですよね。
だから暗譜をして、これまで以上に自分の出している音や、周囲の音に対して注意を払うようになることは音程の安定に繋がります。あと、指揮者を見るようになるので、リズムも安定するようになります。
暗譜の短所
日ごろの練習で楽譜に書き込んでいることが読めなくなってしまいます。楽譜に書き込んでいることって、歌ううえでのノウハウがほとんどですよね。学術的には以下のように定義されるそうです。
宣言的記憶
楽譜でいう音符や音の強弱。言葉で表現できる記憶。伝えやすい。
手続き記憶
いわゆる技能やノウハウ。伝えにくいが、意識しなくとも使うことができる。
例えば、初めて車とか自転車を運転するときってものすごく難しいですが、何度も運転を繰り返すうちに、ほとんど無意識に運転できるようになりますよね。同じように、楽譜に書き込んだ発声や表現方法などのノウハウは、正しい歌い方を意識して繰り返すことによって、そのうち無意識にできるようになります。ところが、それを習得しないまま暗譜をしてしまうと、自己流の歌い方になってしまい、せっかく練習でつかんだ歌い方がふいになってしまいます。
ひょっとすると、暗譜で歌うということが合唱祭の目標みたいに思えてしまうかもしれません。ですが、自分にとって暗譜は、なるべく早い段階で「きちんと楽譜を理解する」「正しい歌い方を身につける」きっかけとなる、有効な手段だと感じています。

5/29 の練習

課題曲を頑張って練習して、満を持して練習に参加しました。
出てみれば当日は自由曲の練習でしたよ(´・ω・`)
あるよねー(涙)。
…というわけで、この日は自由曲『砂時計』の練習でした。



全体を通じ、指揮者からしつこく言われ続けたことは以下の3点です。
①アルト/ベースのパートソロ『ときはおちる』が上付いている
②弱声(p,pp)の入りを押したり引きすぎたりしない
③リズム、特に裏拍が溜められず前のめりになる
しつこく言われ続けるということは、大体の場合、曲の特定の箇所だけ気をつければよい問題ではなく、本質的に歌い方の修正を顧みなければいけない問題だと思います。
①は最後に指揮者から「下顎を下げて(=喉仏を下げて)」歌うように指示されてトレーニングすると改善しました。自分も含めて高音で喉仏が上がっちゃっています。低声の人って、なんとなく下顎が開いているイメージがあるんですけど、高音になると軟口蓋の意識はあるんだけど、喉仏がそっちのけになっちゃうんですね。気をつけます。
②は指揮者から息の支えと言われ続けました。息の支えは腹式呼吸においては腹筋の支えですので、弱声の入りが上手く出来ないということは腹筋がうまく使えていないということだと思います。この辺りは今後、書いていきたいと思います。
③について。
テンポ感が掴みにくい人は、テンポ感が問題になった場合には指揮者を見たり、他パートとの連携を意識するべきだと思います。楽譜に噛り付くのはかえってマイナスです。
自分のテンポ感は物凄くヘボいです。これでもだいぶましになった方ですが、時計の秒数を見ずに1秒,2秒,3秒…と数えていくのも、1分経ったら10秒単位でずれる自信があるくらいヘボいです。そんな自分なので、細かい音符がたくさんあるところは走ってしまいますし、長く伸ばすようなところは逆に遅れがちです。
テンポ感は今後、鍛えていかなければならないのですが、現時点ではなんともならない。なので、テンポ感の基準は他に求めます。それが指揮者であり他パートです。他力本願なのですが、なんともならないことは割りきって、自分のできる最高の歌を歌うということも重要だと思います。
それと、合唱祭は基本的に暗譜ということみたいです。この時期でコンクール曲を暗譜って、割と前代未聞なんですが、暗譜のコツとかも今後触れていこうと思います。

5/22 全体ボイトレに向けて

次の練習は全体ボイトレですね。
なんとなくですが、心がけみたいなものを書いておきます。
自分の課題を見失わない
前に書きましたが、個人ボイトレに対して、全体ボイトレでは個人の実力は大して上がらないと思っています。なぜなら合唱団の課題はほとんどの場合、個人の課題と異なるからです。
まず全体ボイトレでは普通、トレーナーは一般的な解決法をとることが多いです。合唱団としての質を上げるために当然の手段なんですが、少数派な人はやっても良くならないか、ひどい時には悪くなる可能性があります。ピッチが上めな人が、パート全体としてはピッチが下がり気味なためにトレーナーから「もっとピッチ上げて」と言われて上ずりまくっているとか。
そして、トレーナーは聞こえる音に対してトレーニングをするので『声の小さい人』や『音域に届かない人』はトレーニングしようがない。なんか指摘されたけど、自分はこの音域だせないから…って、個人ボイトレでは逃げられないんですけど、全体ボイトレでは逃げられるんですよね。
こういった『合唱団の課題』と『個人の課題』を混同しないためには、まず『個人の課題』を認識することが重要だと思います。
もし課題曲のある部分で、トレーナーに言われた事が自分の課題と一致するなら、課題を克服することで曲を良くしていかなければいけない。一致しないなら、問題が無いのか聞こえていないのか、どちらかを判断して、聞こえていないと思ったら、今の時点では積極的に音を出してもらいたいと思います。コンクール間近では音を出さずに人に任せるっていうのも重要な技になるんですが、今だったらチャレンジしてもいいと思うんです。
中村貴志の技を盗む
中村先生は公式ホームページに書いてあるとおり音楽家です。
Wikipediaによると音楽家は
音楽家(おんがくか)、ミュージシャン(musician)は、曲を作ったり(作曲)、演奏したりする人のこと。
というわけで、自分の定義では中村貴志は合唱指揮者で編曲者で声楽家です。
普通、合唱団の前に立っている人は指揮者で、実際に中村先生はGoogleによると、愛知県を代表される合唱指揮者なんですが、プロ声楽家でもあります。うちらは練習の最初に姿勢を作って、呼吸法をして、ハミングして、発声してようやく練習に臨むのですが、中村先生は日常会話からして歌うときの発声をしているから凄い。
合唱ではよく『上手い人の横で歌うと上手くなる』といわれます。中村先生が課題曲をどう歌うのかをよく聴いて、発声法や表現の仕方とかを真似するだけでも上達するきっかけになるのではないかと思います。
…と、伝えたいことを書きまくったんですが、実は5/22 全体ボイトレに行けません(涙)。本当に行きたかったんですが物凄く重要な予定が入ってしまったので泣く泣く欠席します。5/29の練習に参加しますのでよろしくお願いします。