冒頭でお知らせ。
来週(厳密には今週)土曜日7/15は、
興文混声,うぃろう,花集庵,VoxMEAの4団体による「合同試演会」@名古屋文理大学文化フォーラム
行います。
ちなみに入場自由。
試演会自体は19:45-の予定です。
※写真は、VoxMEA公式twitterよりscreen shotしたもの。
※そのtwitterはインターネットからもご覧いただけるようです。
さて、セミの鳴き声もどこかで耳にするようになった夏の入り口。今日は中川文化小劇場ホール練習。
夢みたものは、こころよ うたえ で暖気運転しておいてから、本日というかコンクールというか金輪際のテーマは、語尾を合わせることを課すことで、フレーズ感を出し、かつフレーズを歌いきっていくという我慢強さを育むこと。今日はその練習。
三善 晃「子どもは…」
筆者には、孫とはなにかをつい最近教えた小1含めて3人の子供がいます。
子供…その存在に助けられてきました。それと、
子供がいる・いない… その点が大きな局面であったことが僕にはありました。時と場合によっては僕はこの合唱団にはいなかったと思います。それはそうと視点を換えて、
自分が子供だった頃、親は自分のことをどう思っていたかに想いを馳せてみます。親にとって宝物だった自分が、大人になって子供をどう見るか。
ここまで考えといて、改めて、子どもとは、社会というかの共有の財産であるところに行き着きます。ですから「子供がいるいない や 若さ」と「歌の深さ」についての関連性など全く気にする必要などなく、三善のサウンドと谷川俊太郎の世界観を、自分の思う存分、チャレンジしていけばよく、繊細かつ大胆に歌っていきたいと思います。
Raczyński「Dominus illuminatio mea」
を経て、
Mendelssohn 「Richte mich, Gott」
2年続けてコンクールで取り上げる曲が自分の状況にシンクロするというある団員の言葉が、僕個人的にはこの曲にのめり込む端緒でした。
絶えず行ってこその祈りだと、こういった曲に触れているときは思うのですが、コンクールで取り上げることを機に、恥ずかしがらずに申しますと歌うときには、合唱団の平安を望んで歌っています。
この現代社会でネットで調べる気も起きない
「尊厳」、というものが自分にもあるのではないかという気がしてくるのです。決して独りよがりでも押し付けがましくもなく。
仕事の状況や家庭の状況というよりもっと踏み込む、というかもっともっと手前の、自分が関わってきた人々、原風景、判断や決断。それらにもっと胸を張って生きていっていいのではないか。でも、ひそやかに。
そう教えられるのです。
哲学が人生を変えるものでなければならないのと同様に、音楽は人生を変える(とまではいかなくても)ものであるような、そう思わせるものがこの Richte mich, Gott にはあります。
ヴォイトレを受けた団員の、また言葉を借りますが、歌詞(少なくとも名詞や動詞←僕の場合)を頭上に浮上させる、沸き上がらせる「泉」となって歌いたいと思います。
水源であると同時に光源でもあります。
自分が発する光の色を感じたいのです。イメージではなく、出す でもなく、出る色を。
ラストの3曲通し前に、選曲の意図その他モロモロを団に語りかける指揮者